終戦記念日に

私の祖父は大正2年生まれ。私と60歳違いで干支が同じ。誕生月も同じだった。2007年10月16日に94歳で亡くなった。通夜葬儀のために訪れた次の日に、浅間山が初冠雪したのを見た・・。

祖父は長野県で生まれ育った。北佐久郡立科町というところだ。農家の長男に生まれて、東京の大学の農学部を卒業して、高校の先生になった。はじめは松代というところの高校の先生をして、それから立科の近くの望月高校ということに赴任し、教員生活のほとんどをそこで過ごして定年を迎えた。自分の子どもには例外のない厳しさで接し、ぶつかったりいろいろあったようだ。しかし生徒には面白い先生という評判だった。

祖父は60歳を迎えたときに、定年後の生活をどのように過ごそうか考え、英会話の勉強をするか、マジシャンになるか迷った。結局祖父はマジシャンになった。独学でマジックを勉強し、芸名もあった。地元の催し物や、地域の交通安全の仕事をしていたので、そのつてで公演にでかけたりしていた。89歳のときに公演した写真が残っている。

子どもの頃私は、毎年夏のこの時期に祖父母の家に滞在した。そのときには必ず祖父のマジックショーがあった。祖父はたねを仕込んでおいて、私たち孫の目の前でお菓子を出してくれたりし、ステッキを飛ばしたり、鳩も出したりした。テーブルマジックもしたので、皆でお茶を飲んでいるときに、鼻の穴や耳の穴から煙草を出したり入れたりしてみせた。「おばあちゃんには内緒だぞ」と言って、奥の方で飼っていた手品用の鳩を見せてくれたりした。

さて、祖父は第二次世界大戦で召集され、どこかの戦場に向かう予定だったと思うが、何かの理由で姫路あたりで足止めをくらっているうちに、終戦を迎えた。実戦の場には行かずに済んだみたいだが、兵隊生活は経験している。ちょうど毎年終戦記念日あたりで祖父母の家に滞在していたこともあり、子どもの頃何度かその話をきいたが、口角泡飛ばして兵隊生活について話すときの、残念ながら内容は覚えていない。しかし、話をするときの祖父の表情、なんとも言えない目の鋭い表情は忘れられない。間接的ではあるものの、私にとっての唯一の戦争体験と言ってもいいと思う。孫にはとびきり甘かった。しかし、戦争の話をするときの祖父のあの目つきを思い出せば、戦争がいかに馬鹿らしく理不尽で腹立たしく理解できないものかが、私にも理解できる。

終戦記念日に、祖父に。戦争というものを伝えてくれてありがとうといいたい。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。