型に関する一考察

この土日で箱庭療法学会に参加してきた。大阪の堺にある大学で開催されたのですが、新大阪から乗り継ぎが悪いと1時間半。初日に参加させてもらった関東のほうの女子大の飲み会は、堺の港の倉庫のような建物が立ち並ぶ場所で開催されたが、そこからの帰り道、潮の香漂う暗い倉庫街を歩きながら、いったい自分がどこに迷い込んだのかと途方に暮れる思いもした。

学会には1日半くらいの参加になったが、今年はシンポジウムという大勢で聴く形式のものの割合が多く、ひとつの事例をじっくり少人数で検討する、というものにはひとつしか参加できなかった。シンポジウムと研究会合わせて参加時間は8時間くらいになるが、そのうち半分くらいは私の意識が深いところにあった(眠っていた)と思う。

学会で一番こころに残ったのは、臨床の先生方のおっしゃったことばではなく、シンポジウムに招かれた日本画家の方の言葉だった。「何かを描こうとして自分がわからないということは、それが自分の中にないということだ。だから型稽古をはじめるわけです・・」と。この瞬間私の目がパチっと開いた(日本画の何かの形式のことをおっしゃっていたように思えます・・)。 2日の学会でいろんな方のお話を聴いたのに、一番印象に残ったのは分野の違う方のおっしゃったひとことだった。やはり、いろいろ違う世界も見に行かねばならない。

この言葉にはっとした方は会場にも多かったと思われ、シンポで討論者に指定されていたI先生も檀上で型についてひとこと述べられた。私たちのしている臨床の世界にも型があって、それは面接時間だの枠組みだのそういうもので、私たちは訓練でそれを叩きこまれている、それを破ると生理的に受け付けなくなっちゃう・・くらいに、と。これをきいて会場の何割かの方たちは「え・・私たちの中にある型ってそういうこと?」と思ったに違いない。

これに関連して、今回思い出したことがある。以前、心理士の先輩と飲んでいて、面接の型、すなわち構造(面接を決まった頻度や時間で行うこと)について話をしたことがあった。その先輩は面接の構造がとてもしっかりとしている。ちなみにその先輩と私は臨床で依って立つ理論が違う。その先輩のよって立つ理論では面接の「構造」を重視する。

私はその先輩の事例を聴いたことがあった。それは、身体の病気で入院している方に対して、病室に入って行って面接したもので、元から構造が守りにくい状況の中で行われた面接だった。私は「あなたがもし、心理士でなくて、掃除人の恰好で病室に入っていっても、あなたの役割を果たせた。それほどにあなたには構造というものが染みついている。あなたの受けた訓練というのははそういうことなのかと思う」そう言った。そうしたらその方は「加藤さんだって、必ず構造を持っているはずだけどね」「S先生にずっと教えてもらっているわけだから」とおっしゃった・・。

S先生は、時間や頻度についてはどちらかというと緩い枠組みで面接される。面接時間は1時間半になったり、それを越えたりすることもある。他にもいろいろ心理士が守るべき枠組みがあるが、それも緩く保って面接をすすめている。なので、そのときにはS先生から受け継いだ型ってなんだろう・・とぼんやり考えて終わってしまった。

しかし、今回思った。私がS先生から教えてもらった「型」というものがあるなら、人間の何をもって信頼できるとするか、人間の何を信じて面接していくか、そのために外してはいけないものは何か。そういう類のことだと思う。それは時間枠や面接頻度とは別のものだけど、結局はそれを決めるためのベースになる。先の先輩の事例を聴いたときには「さすが構造がしっかりしとるわ」と思ったが、その先輩も、形式とは別の、私が上に述べた類の枠組みも持っていると感じる。そしてその先輩も過去に10年間ひとりの先生について、訓練を受けていた。

型、型といっても形式だけが重要視されているのは何かが違うと思った。それは何かと言ったら、形式の奥にあるもの、それが本当の型だと思うし、それは今回シンポで登壇された日本画家の方がおっしゃったように、稽古でしか身につかないものだと思う。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。