知り合いの方の勧めで、「おいしい給食」というドラマを見ている。これは過去に放送されたドラマで、給食の好きな学校の先生が主人公のドラマです。主人公の先生は、給食に命をかけている。先生の給食の好きっぷりがものすごくて、その喜ぶ姿が面白いし、繰り広げられるドラマから、人間がこれほどまでに何かに一途になることが、いかに大切な事かというのが伝わって来る。人間命がけでやると、何かに開けるということだと思う。
命がけで喜ぶ。
私には、こういうものがあるだろうかと考えた時に、ふと思い浮かんだことがある。それは、私が学生の頃の話で、当事はインターネットもスマホも普及していない時代だったので、学校の講義が休講になると、大学の建物内にある掲示板を確認するしかなかった。それは校舎が立ち並ぶ中の一角にぽつんとあって、ガラス張りの掲示板の中に、さまざまなお知らせが貼ってある。学生課が許可した、学園祭の知らせとか、学校内施設の工事の知らせとかにまぎれて、小さな紙が貼ってある。「〇月〇日、〇〇先生の、〇〇講義は、〇〇のため休講になります」と。
ところで、私は休講が好きだった(←おいしい給食の主人公風のものいい)
この休講の知らせを見ると、小躍りして喜んだものだった。そのようすが伝わったのか、そのうち、同じ学部のそれ程仲の良くない女の子たち(同じグループでない)にも、「りえちゃんに休講のこと言うの勇気がいる」と言われるようになった。それは、休講を知ったときに、私がそこであらん限りの感情を表出し、喜びのパフォーマンスをするからだった。
思うに私が日々仕事をするのは、休憩を楽しみにするためにあるようにも感じられる。1日働いた後の、ナイター中継の観賞、休暇に訪れるのんびりとした旅行等。働く日々がなければ感じられない、充足感がある。
さて、誰にとってもいつかは訪れる死というもの。世間で死を休息に例えることはよく耳にしたり目にすることだ。その知らせも、そこに入っていくときも、もしかしたらこのように楽し気な装いで以てやってくる一面もあるのではないか・・・今回このような考えがふと、頭に浮かんで文章をしたためたのだった。
