自分の宗教は何かときかれたら、私の生家が、浄土真宗の檀家に入っていたので、それかなとも思うが、実家にいたころも、出た後にも、それが、自分の生活に影響があったとは思えない。
真宗のお寺の檀家さんの、おばあさんたちが、「あの世は、よほどいいところなんだね」「誰も戻ってこんもんね」等話している・・そういう話をきいたこともあったが、その話をきいたときに、自分がその世界観を信じる気には、全くなれなかった。
このようなので、自分が仏教ですかとたずねられても、はいと言い切る気にはなれない。が、私にとって宗教とは何なのか、書いてみようと思う。
その中で以下では、宗教と宗教性ということばを使いますが、私の中での定義を明確にしておこうと思う。
宗教とは、キリスト教とか、仏教とか、特定の宗教を指すものであり、宗教性というのは、ある人が何かを信じることにより、心の支えを得ること、それは死をも超越するらしいものらしいこと、そういう言葉の意味で、話をすすめようと思います。
また、ここでは、それを考えるのに、たましいとは何か、という話題を切り口にしてみようと思う。というのも、たましいというものが、あるかどうかはわからないが、もしあるならば、それは不滅であるというのは、三省堂国語辞典など見てみても、世の中の通説と言ってよさそうなので、宗教性を考えるにはよいかと思いました。
あと、中世の説話集で「日本霊異記」というのがあって、これにはたましいといのことが書かれていると、心理学者の故河合隼雄先生が、何かの本に書いていた。その考えを借りて、「日本霊異記」の中で私が印象に残っている、以下の説話を参考にして、考えてみようと思います。
ある僧侶は修行のために、水入れと縄で作った椅子とお経をもって、ほうぼうお経を唱えて回っていたが、最期に、ある偉大な禅師様に会うためにお寺をたずね、そこにしばらく滞在した後、持っていたものは殆ど手放し、水入れと、もらった縄だけ持って、修行に外に出た。その縄は足にくくりつけて崖から投身して、自分が死ぬためのもので、しばらく経った後日、禅師様が、白骨化したその骸をみつける(そばに水入れがあったのでその僧侶だとわかった)が、お経を唱える舌だけは生きて、お経を唱え続けていて、人々に信仰心を呼び起こし続けていたという。
これを読むと、人間には、その人にとって大切なものがあり、それは他の人と共有されるものであり、その人の死後も、何かの形で、ずっと生き続ける。たましいとは、そういうもののことを言うのか・・と、私にはそう思われる。
このように、たましいについての話の中では、その大切なものは、ある程度普遍性をもつこと(他の人と共有すること)が求められ、そして、その普遍的性質により、それは、日常の、たわいのないものごとの中に、場合によってはあちこちに、みつけられるようになるのかもしれないと思う。例えば、お経を唱えるなど、その行為じたいは、誰でもできる、ものごとの中にも。
しかし、なにかしら,、自分のよりどころとなるものは、それぞれの人が、さまざまな経験、課題を解決したり、人との関わり、感情等も含めて…をして、はじめて、得られるものではないか・・と私は思う。
最後の結果のところだけ切り取って、例えばお経を唱えさえすればいいとか、私にとって宗教性とは、そういう安易なものではないように思える。
このように今回は、宗教と宗教性について、私が思うことを書いてみた。
・・・ちなみに、この文章は3日前に書き始めて、その間のある夜、寝ている間に夢を見た。それは、私自身がかなり、安易な人生を送ってきている、そういう内容の夢だった。
これは大変そうです。