刈谷の花火

コロナ禍で中止になっていた刈谷の花火が3年ぶりにあがった。といっても今年の花火は10分だけであり、珍しさ派手さはありませんでしたが、一度なくなってみて花火を見られるのはありがたいことだとつくづく感じた。亡くなった父は花火が好きで、毎年欠かさず見物にでかけていたことが思い出される。家族でもでかけたが、今思い出されるのは、父が職場の人たちを家に招き、その方たちを連れて花火見物にでかけた、その後ろ姿です。他に花火大会で思い出すのは子どもの頃に、母の実家のあった長野県にある、戸倉上山田温泉で行われていた花火大会に、家族や祖父母とでかけたことも思い出される。

長野県の祖母宅は佐久にあって、毎年盆には帰省していたのですが、毎年祖父が花火をたくさん買っておいてくれた。祖父宅の近くの公民館では盆踊りが開催されており、いつも炭坑節と望月小唄(佐久地方の民謡のひとつ)だけがループして流れていた。一度榊まつり(佐久地方の祭りのひとつ)というのにつれて行ってもらい、松明を持った人たちが山を走っているのを見たことがあった。そのときに屋台で買ってもらった銀色のヘリウム風船を祖父宅に持ち帰り、それが客間として用意されていた和室の天井に張り付いていた、その風景は今になってもよく思い出す。

小学校6年のときに祖父宅に帰省した際には、歩いて5分ほどのところにある神社の木に雷が落ちた。それは神社の前方にあった高い杉の木をまっぷたつに裂いた。雷が来たのは帰省した当日で、当時は停電が簡単に起きる時代、停電で真っ暗な中、雷もまた一興・・ではないが、祖父の、まるで雷さえも孫の帰省を喜んで迎えてくれている・・といわんばかりの面白い語り口、それで雷の怖さも吹き飛んだ覚えがある。思い返すと祖父は、何かと演出することが得意な人であった。

亡くなった人たちは、思い出の中に生きている。望んでももはや、実際に関わることはできない。思い起こすたびに、懐かしさや、果たせなかった恩義に対する後悔の念もなきにしもあらず。一度なくしてみないとわからないことはたくさんある。しかし、何かが一度なくなってもまたいつか、違う形でそれに出会うことはできるかもしれないと、私は思う。だからこそ、私は同じところにとどまってはいられない。そして、ふたたびそれを目にしたときに、知ることもあると、私は思う。3年ぶり、刈谷の花火を見たときのように。人はそれを希望と呼ぶのかもしれない。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。