会社員時代にビジネスマナー教育の講師をしていた先生から、マナーは心がなくなるとマンネリになる。気を付けないといけないと教えられた。
私自身、マナーができているのかというと、そうでないと思う。恥ずかしい限りです。マナーは何のためにあるかといったら、世の中の人が安心して暮らすためにある・・というのはひとつの理由としてはあると思う。あいさつひとつとっても、この場でこういうあいさつをするのが定例だ・・というのがあるから、人はそれをすることによって、安心して場にいられる。
どのような分野においても、場におけるマナーというのは、長い歴史を持って作られてきたものなのだろう。それには現在、規範と呼ばれているものも入るかもしれない。マナーとか規範とか聞くと、「うっ」と苦しくなる人もいるかもしれない、私もそのひとりでした。
しかし、そのようなものがあるからこそ、人は安心して集団生活を送ることができるのだと思う。ときどき「それは組織からの押し付けだ」「形式ばかりで心がない!」などと言って憤る人(←私のことです)の声をきいたりもするが、それは長い歴史をもって培われた、その組織に属する人の心身の安全を守るためのものであることを忘れてはいけない。それを知っていても、個人の思いを主張せざるを得ない場合には、しっかりと話し合いをする覚悟は必要だろう。
もちろん、規範やマナーは個性を殺すものであってはいけないとは思う。ただ、「このマナーには心がない」と主張する人は、方向性なく自分勝手なことを言いたいだけになっていないか、考える必要はあると思う。自分が守りたいものは何なのか、それがないのに、または、あっても相手に説明する、その責任を負う覚悟がないのに、自分のやり方を主張だけするのは、違うのではないかと思う。
個性は規範やマナーと対立するものではなく、枝分かれの先にあるものとある人(※)は言った。規範がマンネリにならず、ほんとうのマナーになるためには、まず人間は自分の個性に責任を持たないといけない、自分の個性に誠実にならないといけないと私も思う。
自分の思い通りにならないといって、駄々をこねるような自己中心でなくて、ほんとうの自己中心を持っている人が、これから世の中の人が安心して暮らせるようなマナーを作り上げる、そこに参画することができるのだと思う。しかし、既存のマナーを崩すのは、おのれの個性に対する、責任、話し合いを持続する覚悟はいると思う。そのような思いがないのだったら、人は既成のマナーに従った方がいいと思う。
※ある人・・・C・G・ユング