読書の秋

秋の虫の声がきこえはじめ、少しずつ涼しい風の感じられる時間帯もでてきました。このように気候が涼しくなってきますと、いろいろなことをする気力が湧いてくるというものです。秋と言えば読書の秋。これからいろいろな本を読むのが楽しみでもあります。

4月に出た村上春樹さんの新刊を読み、私としてはこの本を読んで、「信じる」ということについて、考えさせられました。また、私が自分で自信に持っていることは何だろう・・とあらためて自分自身に対して問い直しました。

信じるといえば、今読んでいる「死に至る病」も、信じることについて書かれています。この本は、10年ほど前に人に勧められたのがきっかけで読んだ本でした。それは当時、職場である患者さんの看取りをさせていただくことがあり、その後のことでした。

今回「死に至る病」を読んで、日々自分が、機械的に行っていることが、誰かの負担になっているのではないか、そういう恐れが自分の中に湧きました。この本を書いたのは、キルケゴールという哲学者です。その中で、キルケゴールは言っている、無知は罪であると。そして、罪は消極的でなく積極的なんですって。

キルケゴールが言う無知は、例えばキリスト教の方だったら(キルケゴールはこの本の中で、キリスト教の信仰の中にいて、持論を説明している)、キリストに自分の存在を近づける(キリストのようになる)、そのための知のことで、すなわち、何かを信じる、その前提となる知のことです。キリスト教でなくても、何かを目指しているのにもかかわらず、そのための知識を得ようとしないことが罪だと言っているのだと私は理解している。そしてキルケゴールの言う知識というのはどうやら、自分自身について知ることを指しているようです。キリスト教でしたら、神に近づくには、逆にいかに自分が神とかけ離れた存在か、その知識が必要とのことです。また、罪が積極的であるというのは、自分についてわかっていない、無知な状態は自分でその状態に落ち込んでしまっている、というよりは、自ら進んでそうなっている、知らなかったじゃ済まない、責任あるよ、キルケゴールはそういうことを言っているのだと、私は理解しています。

・・日々機械的に物事を行うことがよくないのではない。志向するものがあるのにも関わらず(キルケゴールの表現に変えると、「宣べ伝えられている」のにも関わらず、「自己を措定する力」を感じているのにも関わらず)、自分がそのために何をすべきが方向性がないこと、機械的に物事は行うことはときに必要でもあるし、そうせざるを得ないこともある、全面的に否定すべきことでもない。ただ、「私」がそれをする意味がわかっていないのが、よくないのだと思われる・・ このようなことを考えていたら、無知なのにも関わらず自分がぽつんと世の中から取り残された感じがして、孤独で息苦しくなってきた・・・

さて、この話のさわりを少しだけ、友人にしてみた。するとそれから数日してその友人が、この本が推しだと数冊本を教えてくれた。その中に、「君主論」があった。自分にはあまりなじみいのない分野の本ですが、ネットの書評など見ても、世における君主を目指したいという人でなくとも興味を持って読めそうである。視野を拡げるためにもこれから読んでみたいと思っている。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。