人は自分の中に、様々な物語を持っているものです。そして、多かれ少なかれ、それらに縛られて生きることになります。物語の軸もいろいろあって、例えば世の中には成熟した物語もあれば未成熟な物語もあります。喜劇もあれば悲劇もある。
物語で大切なのは、喜劇か悲劇かではなく、成熟しているかそうでないかだと思う。成熟か未成熟かの違いはどこにあるのか。ひとつには、未熟な物語の特徴は、その一面性にあるように思う。1人の人間が完全に善であったり、完全に悪であったりはあり得ない。ある人の人生が全面的に美しかったり、醜かったりもありえないでしょう。自分が完全に善であると思っている人がいるとして、それはヒステリー的な考え方で、一方的で、他者との建設的な関係はない。自己憐憫に酔いしれる悲劇のヒロイン、極端な勧善懲悪の物語のヒーローは、自分以外の、または自分の周囲の狭い範囲の中にいる人以外とは、建設的な関係を持つことはできない。
成熟した物語となるには、「自分」以外の存在に目を向ける必要があるのだろう。他者を志向する物語。それは誰かに対して責任を負うという表現にも変えられるかもしれない。その責任を負う対象が広がっていけばいくほど、成熟した物語になるのではないかと思う。
他者存在は時に生きる上で苦悩の原因になる。だからこそ人は誰かに対して責任を負うのだと思う。それをしない人生は、きっと苦痛に満ちたものになる。そうでなければ、周囲に苦痛を与えることになる。人間に生まれたからには、自分でその責任の負い方をみつけないといけない。
先日久々になじみの先生方と寄り集まって話をする機会があった。その時に物語に関して話題が出た。その時に感じた事をきっかけにしてこの記事を書いた。物語は人と共通すると、何かしら広がりを持つものだと感じる。