ヒステリーを超える

ヒステリーというと、ちょっと恐ろしい響きですよね。わーわー怒っている人を指して、「あの人がヒステリーを起こした」などという場合もあります。一方、ヒステリーという言葉は精神疾患を指す場合もあります。無意識に押し込めた衝動(例えば、愛されたい、自分に注目してほしい等の気持ち。普段生活しているときには意識されていない)が、外に症状として現れるものです。しかし、私もれっきとしたヒステリーの一員のように思えるときがある

病気としてヒステリーの概念を作り上げ、大きな功績を果たしたのはフロイトですが、フロイトの説明は、「みずからが耐えがたい観念に対する防衛として、その観念を抑圧すると、抑圧された観念に結び付いていた情動エネルギーが症状に結び付く」というものです。それは、身体面の症状に出ると転換ヒステリー(歩けなくなる、声が出なくなる等)となり、精神の症状に結び付くと解離ヒステリー(意識のもうろう状態、一部の記憶のみの健忘等)になる。(実際は両方が合併して起こることが多いようです)。DSM-Ⅱ(精神疾患の診断と統計マニュアル、1968年版)までは、「ヒステリー神経症」という診断名があったそうですが、最新のDSM-Ⅴでは、それが、転換性障害と、解離性障害群等、いくつかの項目にわかれて、いくつかの精神疾患の分類の中に含まれている。最新の分類は、ヒステリーに関してはあまり、フロイトの概念に即してはいないようです。

ところで、解離性障害については、村上春樹の小説、「スプートニクの恋人」の中に、この現象に近いものが出てくると思う。ある人が、一晩遊園地の観覧車の中に閉じ込められて、そこから双眼鏡で自分の部屋を覗くと、そこにもう1人の自己の姿を見る。現実に体験していることがあまりに耐えがたいので、自分の実際の体験から離れて、外から違う形でそれを眺めているように感じる。小説のこの部分を読むといつも、解離状態とはこういうことを言うのではないかと感じる。

フロイトに詳しいある女性の心理士の先輩は、ご自身の中にヒステリー性(病気とまでは行かなくとも、愛されたい、注目してほしい等の衝動があること)を認められ、「自分は名古屋ヒステリークラブ(←本当に存在するかは不明)の会員だ」とおっしゃった。上でも述べましたが、私も自分のヒステリー性を認めないわけには行かない。研究発表などすると、そう思う。見てほしい、他に気をそらせないでほしい。こういう気持ちが会場に伝わっているようだ(自分ではそうしているつもりはない)。聴いているほうは怖いのではないかと思う。しかし、無意識が働いているので、ある程度の修正はできたとしても、ある部分は自分でもどうしようもない。

テレビなど見ていて、歌を歌っている人の中にはヒステリー性の高い人がけっこういるように思える。ある若い女性の歌い手さんで、特にそれが強いように感じる人がいる。しかし、この歌い手さんの歌には力がある。そういうのを聴くとこころ打たれ、この人はヒステリーを越えているなあと感じる。

誰でも生まれ持った、そして育ちや文化の中で育まれた欠点がある。そうすると結局、無意識に突き動かされて、周囲の人とある程度軋轢を生むことは、誰にとっても避けられないことのようにも思える。だったら、それを越える術を見つけるしかない。自分も説得力のある歌を歌えばいいのだと思う。もちろん自分の欠点を認めた上での話ではありますが。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。