最近に「硝子戸の中」を読んだ。漱石の書いた随筆集で、漱石が亡くなる2年くらい前に書かれたものらしい。漱石がどういう人間だったのかわかるようなエピソードがいろいろ出て来て興味深かった。日々の人間関係での困りごと、それについて考えたり苦悶していたことも書かれていた。
漱石が何に苦悶していたかというと、人間関係での様々な局面での判断(相手を信じたり疑ったり)は、経験や直覚によるものだが、その経験や直覚が正しいのか、客観的判断ができる機会は少なく、そのことがまた自分に疑いの気持ちを起こさせる・・そのようなことが述べられている。それに続いて以下の文章が出て来る。
『もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私に豪髪の疑を挟む余地もない程明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。』
他人と信頼関係を築く上で、他人を理解し共感しようとつとめることは、私たちが日常的に行っていることです。私個人のことをいうと、「自分がその人と似た経験をしていればそれは理解と呼べるし、それをもとに他人に対して共感ができるのではないか」くらいに考えている。しかし漱石だったら、自分と似た経験をしたからと言って、それを理解とはいえない、そのレベルの理解に基づいた共感は共感とは呼べない、そう思うのかもしれない。それでも人間に興味があって、人間を求めていたから、苦悩していたのだろう。
「硝子戸の中」の最後には、初冬の庭、たき火を囲む女の子3人の姿(解説によると漱石の娘か)と、それを眺める漱石の暖かいまなざしか感じられる文章が出てきた。漱石は小説の中でいろいろな人を描くことで、人間のぬくもりに達しようとしていたのかもしれないなと連想する。人間はきっと、それぞれに温かい火をこころの中に持っている。そこに近づく方法は人それぞれなんだと思う。ある人は小説を書く、ある人は歌を歌う。
結局他人を完全に理解することなどできないのだろうと思う。しかし、人間に生れたからには、私は人と関わって生きて行きたい。そこで自分ができることとして、最近思う。自分の経験を掘り下げ、自分が何者であるのかできるだけ明確にし、「あなた」と「私」が関わる意味を問い続ける。これを以て私の「希望」としたい。
※『 』内文章は、新潮文庫 夏目漱石著 『硝子戸の中』より引用