先日友達と近所のイタリアンレストランに行った。そこのかぼちゃの冷製スープが美味しかった。玉ねぎの味が効いていて、コンソメが主張しすぎず、かぼちゃの味が引き立っていた。自分で作ると牛乳臭くなるけれど、それもなかった。食べながら、どうやって作るのだろうと友達と話しあった。
一緒に食事をした友達は、中学と高校の同級生で、就職先(私はかつて、自動車部品メーカーで10年間OLをしていました)も同じで、料理教室にも一緒に通った。彼女は今も同じ会社で働いている。
私は彼女にきいてほしいことがあった。先日、ある研究会でカウンセラーとして発表して、手ごたえがあってうれしかった。それで「これでやっていける」と思った、その話をした。(それ以前にその研究会の場が成立したのは、世話人の方々や助言者の先生の存在あってのことですが)。社会の枠にはまらずに自分のやり方でやっていこうとすることは、おそらく失っている大切なものが沢山ある。何かを得れば、税金を払わないといけない。そのことも話した。彼女は真剣に耳を傾けてくれた。
そして今度は彼女が、「私は今の会社で定年までやっていけると思っている」と言った。私は、この言葉はとても重みがあると思って聞いた。彼女は強い。昔から悩みがあると人を寄せ付けなくなることはあるけれど、悩みを人にぶつけたり、人に当たったりは決してしない。その強さを持ってここまで来た人なので、これからもそのようにして行くのではないかと思った。
さて、友達とはたわいのない話もいろいろした。例えば、もし経済的な心配もなく、何をしてもよいと言われたら何をするか。私はシロツメグサを延々と編み続けたい。小さい頃に3メートルくらい編んだことがあって、そのときの幸福感が残っているからと言った。すると友達は少し考えて、私は小さい頃に左官職人に憧れたと。ああいう風にきれいに壁が塗れたらいいなと思って見ていたから、いまだにちょっとやってみたいと。・・ほとんど意味のない話ですが、こういう話を熱心にしていると、子ども時代、いろんなものに守られていたときの気持ちがよみがえって来る。
今はお互いに「これでやっていくしかない」そういうものがあって、不安を抱えながらなんとか生活していこうとしている。こうして話をすると時は経っても、変わらないものもあることを実感する。お互いにここまで来て今がある。
それにしても、そのレストランで出てきたかぼちゃの冷製スープは美味しかった。滋味深く、夏バテ気味の身心にやさしく染みる味だった。