今年は師走に入る直前から、情けない思いをすることが多かった。これは自分によるところが大きい。これまで積み上げてきた、自分のカルマ?とでもいうものがめぐって来て今、こうなっている気がしています。
はじめは相手を責める気持ちから自分の情けなさを説明していたけれど、よく考えたら結局自分。相手に過剰な期待をして、相手を不快な気持ちにさせて、結果こちらが情けなくなるようなことが起こる・・。自分はどれだけ周囲が見えていないのかと思います。
実はこの記事は、「なさけない人」という題で書きだしたものでした。「情けがわからない人」が情けない人なのだと。人に情けない思いをさせるのは、情けの無い人がすることだと。そういう趣旨で書こうと思っていました。
そうしたら、情けのある人、は情けない思いをしてもそれを我慢できる人だと思いました。情けなさを感じても、それを放り出してしまっては情けがあることにはならない。我慢してそれを持ちこたえて、関係を持続させる。いかにこれが、大切なことか。なんのために?人間になるためにだと思いました。最近私は、人間とは人と人との絆のことだと思っています。
私はこれまで、人の情けがわからなかったように思います。私の人間関係はずっと一方的で固く、形式ばっていたと思います。私はこれまでの43年間、何かを産みだそうとけっこう必死でした。勉強したり働いたり、物理的に生産的でなかったことは、ほとんどなかったと思います(←自分で書いていて嫌な感じです)。でも、肝心なものが抜けていたから、精神面では生産的ではなかったと思います。
夢分析をしていると出てくる、戦いのテーマ。相手に傷を負わせ、自分も少なからず怪我を負う
夢の世界、象徴の世界では、人間の関わり合いは傷の負わせあいとして現れることもあるように思えます。そして何かが生まれるためには、こういう生傷を負うような関わりが必要なときもあるように思えます(←象徴の世界の話です)。
この世に生まれてきたからには私は、人間になりたい。切に思うのです。