(9/20一旦掲載したものを内容を少し変えて再度掲載しました)
昨日まで神戸で開催された心理臨床学会に参加してきた。行きっぱなしでは進歩がないのでそこで考えたことを書こうと思う。学会では児童養護施設の事例のシンポジウムや、不登校の事例発表に参加した。そして、母親と娘の関係というところで考えさせられることが多かった。
以前話をしたことのあるAさんは、70歳を過ぎた女性だったが、いまだに母なるものを泣いて叫んで求め続けていた。強い母親を持ち、Aさん自身も強い女性だった。村上春樹のダンスダンスダンスにも強い母親が出てくる。少し荒っぽいまとめかたかもしれないが、両方とも仕事にかまけて母親としての責任を果たさず、娘に友達になってほしいという母親だ。
母親とは役割だという考え方もできる。母親の役割とは何だろう。子どもを産み守り育む。その中で世界は安全だと保証する。「世の中は怖くないよ」と。しかし世の中とは母親自身のことである。
人が70歳を過ぎても泣いて叫んで求める母性とはなんなのか。母なるものとは。土台、帰るべきところ、土、生まれたところ、発生元、起源・・。Aさんの求めていたのは実母というよりこのレベルだった。こういうものを泣いて叫んで求める人とそうでない人、その違いはどこにあるのか。
正論を言うと、産むだけ産んで母としての役割は担わない。それは間違っている。なんで産んだのかという疑問は、怒りは、子ども自身の生まれてこなければよかったという疑問、怒りになる。人間そんなことは考えたくないから、Aさんのように70歳を過ぎても母なるものを泣いて叫んで求め続けるのではないかと思う。
母なるものは、母親が子供に与えるべきものは何か。役割は何か。
母性とは言うまでもなくお金で買えるものではない。母親との関わりの中にある。関わりとはその人がまず生きることであると思う。私には生きることは祈ることであるという考えが成り立つように思えるが(信仰以外にも)、その考えが成り立つならば、母親の祈りとは何なのだろう。母親がやむを得ずしていることは何なのか。母親だってひとりの人間だ。それが「母親であること」でないといけないのかという話にもなる。
ダンスダンスダンスに出てくる強い母親は気鋭の写真家だ。自分を押し進めるあまり周囲を損ない続ける。娘はケアされず、戸惑い、傷ついている。そして主人公に相談するのだが、小説の中では解決は示されない。母親にとっては写真を撮ることはやむにやまれぬことだ。生きる=撮るなのだから。娘がこれを何らかの形で理解したならば、和解が生まれるかもしれないと思う。
生きてもいないし祈ってもいない。本当に周囲の人を損なうのはこっちのほうではないかと思う。ああ、あの母親はやむにやまれずこう生きてきたのだ。精神的なところでそう思えるものがあれば、娘たちはまだ救われるのではないかと思う。
今回の学会に参加して考えたのは上記だ。しかし学会から帰って来てから、母と小姑と嫁と私と姪の洗濯物がごっちゃになっていて、誰が洗うのか言い合っている夢を見た。役割と責任の問題は私自身の問題でもあるという警告だ。少し話がそれたが、人生の最期になってもそれを求めて泣き叫ぶ必要のある母性とはなんなのか、母なるものを回復するのに人がどんなこころの過程をたどるのか。とても興味深いテーマであると思っている。