境界例について考える

精神面での病気や問題、その状態を理解するために境界例ということばがある。精神病と神経症との間の状態を総じてこう呼ぶ場合がある。古典的なヒステリー(こころのもやもやが意識されずにからだの症状として現れるもの、声が出なくなる、腕が痺れる等)の次世代の呼び名だという人もいる。境界性パーソナリティ障害の別の呼び方だと捉える人もいるし、人によっていろんな捉えかたがある。

私たちは生きていれば怒りを感じる。恋愛感情を感じる。しかしある場面である関係でそれを出すかどうかは別である。先日指導を受けているときに臨床の先生が「常識的な世界に非常識なものを持ち込む。これは境界例といえる」というようなことをおっしゃった。これはなるほどと思った。

そんなことはここで言うべきことではなかった。その「ここ」というのが境界例を理解するのにキーとなる気がする。越えてはいけない線がある。その判断ができないのが境界例だ。「ここ」の判断ができない。それは自分の場所がないからだと思う。自分の場所があれば、他人の場所が認められる。ここがどんな場所か見えてくる。そうすれば一線が引ける。自分の場所がないから他人の場所がわからない。線が引けない。それで他人の領域で「なんであなたがそこで怒るかな」という感じで怒ったり奇妙な印象を周囲に与える。

境界例のようには一時的には誰しもなりうる。そういうところは誰しもが持っていると思う。

人間同士わかりあうことが大切だという人は多い。だったら一線を引かずとも区別などなくともそれでいいかという考え方もあるが、他人との関わりは区別あってのことだと思う。互いに共有する「ここ」。しかしあなたにとってのここと私にとってのここは違う。その前提がなければ人間同士のかかわりはないと思う。そのためには自分がどういう世界に住んでどう世界と関わっているのか。わたしたちは把握することが必要だと思う。

箱庭療法では、作成された箱庭に自分と世界とのかかわりが表現され把握することが期待できる。その意味で箱庭療法は境界例(的なこころ)にも有効であるとあらためて思う。

箱庭作品の一例

箱庭作品の一例 (掲載について作成者の了承済)

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。