今日の明け方に寒くて蒲団の中で目が覚めて、切断による絆というものがあるのだろうなとふと、思った。それから、7月に中日新聞に掲載された新聞記事のことを思い出した。それは亀山郁夫さんというロシア文学者の方の記事だった。ドストエフスキーの翻訳で名前が知られている方という印象だが、今は名古屋外国語大学で学長をしているらしい。亀山はその新聞記事で家族の事、特に父親について語っている。そしてその中で父性愛について述べている。
「・・僕には長女と長男がいて、今は二人とも自立して頑張っていますが、僕が四十代のころ、突然に『自分が死んだ後、子どもがものすごい不幸に見舞われるのでは』という恐怖に襲われたことがあります。子どもが苦しんでいるのに、全く手助けできず、分厚いガラスの向こうから見るしかない。どうして、こんな感情がわいてくるのか。もしかしたら、これこそが根源的な父性愛なのかな、と思います」
これを読んだ時に、なるほど父性愛とはこういうものかと少しイメージできた気がした。そして、子どもが苦しんでいるのにガラスで隔てられて手出しできないとは、さぞかし苦しいだろうなと思った。
例えば目の前に転んだ我が子がいたら、すぐに抱き上げて慈しむ、それが母性愛だと思う。しかし、それだけでは、その子供に判断力や自立心が産まれない。人間が成熟するには、母性愛、父性愛両方が必要で、母性的良心と父性的良心の両方を、自分の愛する能力によって(フロイトの言う超自我ではなく)自らの中に築く必要がある。このようなことをエリヒ・フロムは自身の著書の中で言っている。
私は、人間はベタベタした甘えの関係にとどまるべきではないと思う。自立して自分なりの人との関わりを見だしそれに責任をもつことが必要だと思う。この考えは、知識によって得られたものではなく、血の通った私の経験による。なので私は、例えば転んだときに抱き上げてくれる腕がなくとも、ぬくもりは感じることができると確信する・・何に・・?
物語を与えてくれる存在に
父性のことを書こうとおもったけれど少し結論がずれた。要は私が感じたことが書きたかった。
「 」内引用:中日新聞 2019年7月14日朝刊 生活面 「『父殺し』の物語に衝撃」
参考図書:「愛するということ」 エーリッヒ・フロム 紀伊国屋書店