伊勢物語を読んだ。125段から成り、それぞれ完結した物語で、平安時代の貴族の在原業平の名前がよく出てくる。恋に落ちた女性とのいろんな場面、感情が歌に詠まれている。在原業平は妹を見ていて何か心を動かされたのか、妹のことまで歌に詠んでいる。在原業平は色好みと言われるが、加えて感激しやすい人だったのだろうと思う。
ユングは男性の心の中にある女性のイメージをアニマと名付けた。このアニマのイメージを自分の中で完成させていくこと。これが男性が生きることの意味、存在の証明、生きる答えである(とユングは考えていたかもしれない?と私は思う)。これに対して女性の場合は、心の中にある男性のイメージ(アニムス)に注目することが重要となる。
ユングによると、アニマは4段階に分かれている。まずは生物学的な段階。「女であること、子どもを産み育てることができるということが大切である」。その上の段階として、ロマンティックな段階、ここで男の人は「女性に人格を認め、それに対する選択と厳しい決断が必要となる」。「アニマの第三段階は霊的な段階で、聖母マリヤによって典型的に示される」。そして、「最高の段階として叡智のアニマがある」。そして、「この4段階を経たのちに、アニマはもはや人間像を取って表現されることなく、ひとつの機能としてわれわれの自我を、その心の真の中心としての自己に関係づける働きをするものとなるとユングは言う」。(「」内文章『河合隼雄著 ユング心理学入門 (P205-208)』より引用)。
さて、私は完全には理解できない、というよりは殆ど理解できていないこのアニマの話ですが、要するに、男性の場合は、夢の中に現れる女性像等を通して、自分の心の中に現れる女性のイメージ。これに注目することが大事のようです。なぜ大事なのかは個別の答えがあるかもしれないが、私はその答えが人間の存在に関する哲学的問の答えになっているからだと思う。
第一段階に至る前に、自分の心の中にこれという女性像を抱く段階に至らず、まだ母親の懐に抱かれている状態にとどまっているような男性たちがいるという。この段階にいる男性は、多くの女性と関係を持ちながら満足できずに、次々と対象を変えていくこともあるようだ。ユング心理学入門ではドンファンなどが、その段階にとどまる男性の例としてあげられている。
ドンファンといえば、エリッヒ・フロムの「愛するということ」という本にも、ドンファンのことがでてくる。フロムによれば、ドンファン的な男性は、自分の心理面での男性性に自信が持てないから、多くの女性と肉体的にかかわることで、心理面の自信のなさを補償しているのだという。
世の中見渡してみても、多くの女性との関わりを求める男性は珍しくない。しかし、一概には、多くの女性と関わるからといって、それが皆ドンファンだというわけでもなさそうに思える。在原業平は多くの女性と関わったが、別に、自分に自信のない人ではなかったのではないかと思う。
在原業平から話が逸れましたが、そして、もっとそれますが、最近、自分がなぜ人間に生まれてきたのかと考える。人間であることは、無限の可能性を秘めていることだとも思う。世の中には生物学的には男性と女性しかいなくて、しかも自分は動物ではない。当たり前の事実の前で、自分がどう生きて行くか。わからないことばかりだと感じる。