先日、野沢温泉を旅行し、十王堂の湯という外湯に何回か行った。野沢温泉には13か所の外湯があり、十王堂の湯はそのうちのひとつであり、十王堂の湯の近くには、えんま堂という古く小さい建物がある。
旅行の2日目の朝十王堂の湯に向かったが、着いたら早朝過ぎてまだ閉まっていた。それで外で待つことになった。今年のゴールデンウィークの野沢温泉は、最低気温が一桁の日もあり、スキーの恰好をして方が、温泉街を板をかついてスノーブーツで歩いていく姿もみかけた。スキー場と反対側に見える、そんなに遠くない山々にはまだ、雪が残っているのが見えた。
しばらくすると、地元の女性が通りがかり、声をかけてくれた。そんなところに立っていたら寒いから、そこのお堂に入っていたらいいという。それが前述のえんま堂のことで、外観は小さく古く黒くすすけたように見える木造の、中も暗くがらんとした建物で、履物を脱いであがれるようになっており、暗い中目を凝らすと正面上には、怖い顔をした冥界の裁きの王様たちの像が祀られているのが見える。お堂入り口の上り口あたりには、おそらく観光客向けに、清潔なバスタオルが並べられていた。ここでお休みくださいということなのだろう。入口に扉はなくぽっかりと口を開けており暗い独特の造りの建築物・・確か昨年だったか、この前を通りかかって目にしたときには少なからず恐ろしいような印象も受けた建物。しかし、今回はそこに入り座らせていただくことにした。程なく十王堂の湯が開いたようだったので、お湯に入りに行くことにした・・・
十王堂の湯には、旅行の3日目の夕方にも訪れたのですが、その時には、私と、ツーリストが数人いて、小学生の女の子を2人連れたお母さんもいた。お湯は相変わらずかなり熱い。少しずつ水の蛇口をひねったり、うすめていたが、全く間に合わない。やっと大人にとっては入れる熱さになったが、子どもたちには熱すぎて入るのは厳しいだろうな・・と思いながら少しずつ水を足したりして様子を見ていた。すると地元の女性がひとり現れた。(湯の温度管理は地元の女性たちが差配しておられるという印象です)。
その女性はさっぱりと気持ちよく、実直そうな70歳くらいに見える方であったが、熱い湯を水で薄めて子どもたちに声かけしながら、入りやすい温度にしてくれていた。その時のその方が「子どもたちはまだえんま様に我慢しなくてもいいから・・私たちはがまんしないといけないけど」とおっしゃった。
さて、この日宿に帰ってから考えました。(以下は旅のつれづれに頭に浮かんだことであり以上のエピソードとは直接の関係はありません)
人間の罪とは何なのでしょうか、キルケゴールは絶望が罪だと書きました。そして、世の「子ども」たちが大人にならねばならない所以は、ここにあるのではないかと思い至りました。すなわち、「子ども」はまだほんとうの絶望を知りえないがゆえに、その先にあるほんとうの希望にも至りえないということなのではないでしょうか。・・・だから、もしあなたが「子ども」で、人より少し早く絶望を目にしたと感じたとしても、それは絶望だと決めなくていいと私は思います。なぜなら、その先に希望を見つけ出すことは可能と、私は考えていますから。