先日、お盆なので実家に帰り、亡き父の遺影のある仏壇の前で手を合わせた・・。
私の、物事の処理に対して時間がかかるのは、今に始まったことではないが、今回の帰省においても、また、あることで要領の悪さを発揮し、母を心配させたようだった。そのようなときにはいつもそうだったのですが、母は「信じられない!」という感じで、ワーッと語気を強める。ワーっと言われるのは不本意でもあるのですが、振り返ると、過去にはそれがきっかけで就職活動が進んだり・・と何かと母には力になってもらっていた。
私と違って頭がよく、世間的物事を要領よくこなす母にとって、私はさぞかし、不可解な子どもだったに違いない。要領の悪い、物事の処理の下手な私は、母に心配してもらい、ときにワーッと声をかけられながら、育ったわけです。が、私から見ると母にだって、いろいろ下手なことがあった。お互いさまなので、そして、私の要領の悪さは個性ともいえるので、母はそんなところでワーっと言っても、しょうがなかったと思う。そういうところでエネルギーを使ってくれた母には感謝です。ところで、私は心理士でもありますし、私のことを心配してエネルギーを使ってくれた母には感謝しつつ、こうしたやりとりが子どもの心にどんな影響を与えるのか、少し考えてみたい。
私に限らず、繰り返される関係のパターンにより、子どもの心には何かしらのイメージが植え付けられる場合がある。それは何かの表象として、夢に現れることもある。そして子どもは、そのイメージと同一化したり、外界に起こる出来事を体験する中で、そのイメージを実現することになるかもしれない。私の場合には、母と同一化した場合には、理解できない対象に対して、ワーっと言うことになるだろうし、関係のパターンが外界において実現する場合には、何かをやらかして(という物語に絡み取られて)、誰かにワーっと言われることになるだろう。両者が心の中で戦い、それが度を越した場合には、神経症の症状が出るかもしれない。
このような実現をもし変えたいと思ったときにはどうすればいいのか。心理療法で新たな関係のパターンを作るのがよいのではないか・・・と思いますが、これには様々の限界があるという人もいる。その人の個性もあるし、幼少期に形成されなかった愛着は、後から形成するのは難しいという考えのようです。他には、宗教性が生きる支えになるという人もいる。宗教性とは、特定の宗教を信仰するというよりは、自分の中から出てきた、自分が生きる上でよりどころとなるもののことかと思う。
私の場合には、物語的に物事をとらえたときに、あるときに、ふとしたきっかけで、自分の支えとなるようなものが、つかめるときが来るのではないかという気がしている。それは、とてもかすかなもので、しかし、その人が自分を主体に置いて生きるための、コスモロジーの転換ともなりえるようなものです。このような体験をしたときに、それまで繰り返された関係のパターンの、実現は、その後ももしかして起こりえるかもしれませんが、その人にとって意味の違ったものになりえると思う。
物語的解決は、結局とても個人的なものなのだろう。私がここに書いたことも、個人的なことなのかもしれない。しかし、繰り返し物語を語りなおして、私が読み取った布置。なんのために自分は生きているのかという問に答えがみつかったときに、それまで繰り返されたパターンは、ある時確かに、その人にとって、形を変えるのだと思う。