夏目漱石の『道草』を読んだ。自伝的色彩の強い小説と言われている。新潮文庫から出版されたものを読んだのですが、注が沢山振ってあって、小説中に描かれているこのエピソードは、漱石の実際のこの出来事に対応している・・というように丁寧に説明がある。
『道草』が発表されたのは大正に入ってから、漱石が亡くなる2年ほど前のことですが、舞台となったのはその12年ほど前の明治36年くらいのことらしい。主人公は健三という男性で、健三が外国から帰って来てから、小説を書き始めるまでの間の日常のできごとが過去の回想とともに書かれている。その直前に書かれた『彼岸過ぎまで』『行人』『こころ』に比べると、この先がどうなるんだろうというようなドラマチックな展開はないですが、味わい深い文章がところどころにあって、音読しながら読んだ。
小説の中では健三の成育歴が語られる一方、『彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在の為に苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった(p296)』とある。このように現在の健三の姿を冷静に見る目もある。
健三は最後の方で、小説を書き始める。注釈によると、これを漱石の自伝的色彩の強い小説として見て時代を重ね合わせると、『吾輩は猫である』に対応していると言う。『吾輩は猫である』を書いた後、漱石は亡くなるまでの10年ほどの間にかなりのハイペースで作品を残した。健三のモデルが漱石とするなら、漱石が小説で世の中に入り始めた時期のことが描かれていることになる。
作中ではフランスの哲学者ベルクソンの言葉が引用されている。健三が若い学生と話をしている場面です。『人間は平生彼等の未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために突然塞がれて、もう己は駄目だと事が極ると、急に目を転じて過去を振り向くから、そこで凡ての過去の経験が一度に意識に上るという(p145)』。
過去に起こったことを次々と思い出す、人間にはそうせざるを得ない時があると思う。過去の出来事を疑い続けるとは、一面的な見方をすれば、そしてある場合には、人間が退行している状態とも言えると思う。しかし、過去を疑う、それが退行である場合には適切にピリオドが打たれねばならない。過去を疑う、その姿勢を保つとしても、それに新たな意味をもたせねばならない。
健三が小説の道に入って行くときに、どのように過去と現在の自分を捉えたのか。『道草』が漱石の自伝的小説とするなら、漱石がその前後にどのような人生を送ったのか、いろいろイマジネーションを膨らますことができる。その点でも興味深いお話だった。
※『 』内文章は、新潮文庫 夏目漱石著 『道草』より引用