父のたましい

あれは母方の祖母が亡くなった年の事で、私は当時、まだ心理士になって一番最初に就職した病院で働いていた、その頃のことだった。その2年前に父は、肺がんを患い、一回目の手術をしていた。祖母が亡くなったのは、その2年後のことで、その1か月前に父は検査を受け、また肺に影がみつかっていた。その中、祖母の葬儀に向かうために、私は父と2人で長野県の立科に向かった。

子供の頃には、夏と冬に必ず、母の実家のある長野県の立科に帰っていた。私は覚えていないが、私が幼少期には、中央道が中津川のあたりまでしか通っていなかったらしく、そこから下道を使って、祖母宅に行っていたらしい。くねくねした峠道を、お盆時期に、当時エアコンのない車に乗せられて、連れて行くときに私が車酔いをしたから・・と言う話をよくきかされた。父は私が車酔いしないようきをつけて運転してくれたらしい。

私の記憶に残っているのは、自分が10代になってからの帰省の記憶で、高速道路が伸びて、諏訪インターで降り、そこから茅野を抜けて、立科に入るルートです。当時はいつも行き帰りどちらかには、諏訪インターをでたところにある、おぎのやというドライブインに寄って、そこでお土産を買ったり、名物の釜めしを食べるのが、ルーチンでした。ここらから茅野の白樺湖を抜けて、立科の山道を抜けた先に、祖母宅があった。祖母宅が近づくにつれ天気が良ければ北側に、浅間山が見えてくる。父はこの景色をみるといつも、南北が反転する感覚になると言っていた。地理感覚には優れた父にしては珍しい話である。父は18歳で刈谷の実家を出てから、29歳まで、学生時代と就職で、長野県にいた。学生時代は4年間上田で過ごし、その頃には浅間山を背にして暮らしていたのかもしれない。父には故郷が2つあったのかもしれない。

さて、話は戻って、祖母の葬式に父と車に乗って行ったときには、上記と異なるルートで言った。それは、小県の和田村というところを通って行く、比較的新しいルートで、おそらく長野オリンピックの前後にできた道ではないかと推測する。私にはあまりなじみのないルートでした。私が大学に入ってから(30年以上前)は、伯父の代に変わったこともあり、祖父母と会うのは、立科の祖母宅でなく、諏訪で落ち合う形になっていて、祖母宅からは足が遠のいてしまっていたので、新しい道ができていても、馴染みがなかった。

そこには道の駅があって、それでも2回ほど訪れたことがあった。ごく簡単な飲食ができ、野菜やお土産が売っている。また、和田村では黒曜石が採れるので、黒曜石なんかも売っていた。私も、ここで黒曜石を手に入れて、今も箱庭療法で使っている。

この時も休憩がてら、父とここに立ち寄ったが、その時に父と交わした会話を覚えている。ドライブインの駐車場と逆側、建物の裏手には、川が流れていたと記憶しているが、そこにはベンチがあった。そして川向うには、何かの保養施設のようなものがあった。ベンチに並んで、おやきか五平餅か・・食べながら、父と何ということのない会話を交わした。その時父が言った。「あそこに、今度お母さんと泊るんだ」と川向うのその建物を指した。これから一仕事だけど、楽しみにしているんだ・・といわんばかりに。そう言った父は、少しほっとした感じで、穏やかで落ち着いて見えた。結局それは叶わず、父は闘病の末その2年後に亡くなった。

今思うと、父は自分が行く場所がわかっていたのかもしれない。そこにはちゃんと、母がいたのだろう。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。