村上春樹さんの長編小説が4月13日に発売された。これから読むのが楽しみです。
ところで、村上春樹さんは、ご自身の書かれたエッセイをまとめた書籍、「雑文集」の中の、「遠くまで旅する部屋」というエッセイで、ご自身の小説が語ろうとしていることについて次のように要約している。
「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そして運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれている。にもかかわらず、我々は、それを探し求め続けねばならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」
・・人にとって、大切なものは、それと気づいたときには致命的に損なわれているが、それでもそれを探し続けないといけないらしい。みつけたときには、致命的に損なわれているのに、さらに探し続けるなんて、つじつまが合わないように思える。
深層心理学では、無意識というものの存在を仮定している。無意識は人の心のほとんどの領域を占めており、普段わたしたちが、これがこころだと感じている部分、それは意識と呼ばれるが、それはこころ全体からしたら、氷山の一角だと考えられている。無意識の内容は私たちが夜寝ている間に見る夢の中等に現れる。
ユングが言うには、無意識の影響はあまりにも大きく、私たちができることは、無意識が味方してくれるような、意識の構えを取ることくらいだという。それはどのような構えなのか。
思うに、無意識には導かれるべきで、追われるべきでない。
導かれることと追われること。そこに、何の差があるかと言ったら、意識の自発性があるかなしかだと思われる。それは、自我の強さとはまた少し違う、自分がどこから来てどこへ行くのか。無意識も含めて布置を読み取り、今何をすべきなのか明確にして、選択し、行動に責任を取ることかなと思う。
このようにして、自発的に生きていくことが大切だと思われる。しかし、それに固執して突き進んでも、形あるものは必ず失われるときがくる。それでは、形を持たないものなら、失われないかといったら、最近の自分の夢を見ていると、どうやらそれも違うようだ。私にとって大切なものとは何なんだろうか、今のところ答えはわからない。
しかし、例えば、ある人が大切なものが失われるような、絶望的な夢を見たとしても、それは決して絶望を意味するものではないかもしれない。これがすべてだ、と思っていた、その外側?にまだ何かかあるかもしれない。今はそれを信じてもいいのではないかと、思い始めている。