演じる

新卒で入社した会社で人事の教育部門に配属された。そこで担当していた仕事のひとつが、新入社員ビジネスマナー研修のためのリーダー教育の事務局の仕事だった。この研修は社内から、社歴5年くらいの先輩社員で、新入社員にビジネスマナーを教えてくれそうな人を人選し、新人さんを迎える前に、まずはその先輩社員たちに教育をするというものでした。研修は8人くらいで行い、受講者のうちの1人がリーダー役になり、あとの7人が新入社員役をする。ロールプレイをして、互いにフィードバックをする・・・それを順番にひたすら3日間の合宿で繰り返す、そのような研修でした。

講師は社外の方で、N先生という当時60代の女性で、その会社で長年カウンセラーもしていた方だった。合宿は3日間を通して、明るく真剣な雰囲気の中行われていた。そして例年決まって、合宿2日目の午後に一旦、「このままでは、あなたたちが新人さんたちに教えられるようになるのか心配・・」という感じで先生のシリアスさが増す時間帯があった。受講者の方もそこで一旦煮詰まり内省し、だいたいがそこからさらに本気で取り組むようになるのだった。先生がいつも真剣だったから。先生がおっしゃっていたのは、出来不出来のこともあったかもしれないが、私たちの真摯さを問うてくれていたと思う。N先生ははまさに、自分が「生きていた」、そういう方だったと思う。

さて、上司に言われて、私も入社1年目にこの研修に、受講者として参加した。新人さんに対するビジネスマナー教育は、少人数グループで行う。指導役のリーダーはまず新人さんに説明し、見本を見せて、ポイントを押さえ、指示を出して実技をしてもらい、それに対してグループから意見を出してもらい、それをリーダーがまとめて方向性を示す・・。電話応対だったら、当時は電話機とレコーダーを準備して、録音は誰がやる・・等も考えておく必要がある。時間管理もある。実習は、リーダーが電話をかける側になっておこなったので、例えば「○○通商の○○ですけど、○○課長いますか」等の想定をあらかじめいくつか作っておく必要もある。

それは私が受講者として参加した年の、合宿2日目の夜のことで、他の受講者の先輩社員に、もうこれは本当に無理だ、私には向いていないのにこの担当になってしまった・・などと話しながら翌日が電話応対実習の日だったので、その準備をしていた。その時に、会社で普段仕事をしているときに、電話をかけて来る取引先の方のことを思い出した。その方は電話をかけてきても自分から名乗らない。取り次ぐ先を告げられて、こちらが「お待ちください」と言ってからぐずぐずすると、いつの間にか電話が切れている。翌日の電話実習で、かける側を演じる際にその方のことを真似してみようと思った。入社1年目の私が日ごろ困っている事を研修に取り入れるのはリアルでよいかもしれない。それに、もう自信がないとか言っている場合ではない、これは仕事なのだ。

翌日の研修では、前日の夜に考えたことをやってみた。つまり、電話応対実習のロールプレイで、普段自分が経験していることをもとに、演じてみたわけです。リーダーとしての力の足りなさは相変わらずでしたが、実習の部分でなりきって演じたことで、自分がなにか吹っ切れた感じはありました。研修の最後の講評で「今日一番変わったのは加藤さんだった」とN先生におっしゃっていただいた。

社会で生きていると、場面に応じて役割を演じわける必要がある。私はいまだに演じるのが苦手だ。しかし、思い起こすと22歳の時、吹っ切って役割を演じ、苦しいところを乗り切った経験があった。今の私に同じことができるだろうか、あの時の私にできたのだから、意志があればできるに違いない。自信がないとか言っている場合ではない、これは私の仕事なのだ。

この記事を書いた人

アバター

加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。