OL時代、切れ者の先輩社員がいた。7歳年上の男性で、一緒にスキーに連れて行ってもらったり、職場のお兄さん的存在だった。
私は当時(今もだが)、コミュニケ―ションにおいて直球しか投げられず、私自身、なぜこれほど直球しか投げられないのか悩んだ。周囲の同僚や上司には「たまには変化球もまぜたほうがいいんじゃない」と言われた。ただ、そのお兄さん的な先輩社員だけは「加藤のその直球に磨きをかけるっていうのも、ひとつの手だぜ」と言ってくれた。その方は、その会社には珍しくラディカルな方だったが、現在も会社に残り、地位を得て活躍しておられる。
この直球勝負の性格は、私の問題でもあり今でもときどきもてあますが、私の個性ともいえる。人間にはいろいろな性格があり、問題があり、それはある意味その人の個性ともいえる。それに磨きをかけるとはどういうことなのか。
自分の個性、それに磨きをかけるとは、結局自分のことを知って、世の中に生かすことだと思う。やみくもに自分の個性を押し出したり、問題に無意識的に振り回されてふるまっていては、世間は相手にしてくれない。しかし、自分の問題を知った上で、そのような自分がどのように世の中で生かされるか見極められたら、それは個性になると思う。この個性で生きるのは、どんなメリット・デメリットを自分・世の中にもたらしているか。それでもやむにやまれずこうして生きている自分とは世の中とどう関係しているのか、世間の中でどういう位置づけにあるのか。
それがわかれば、私の例で言えば、自分を生かすためにどのようなところで発言すればいいか、どこでは黙っていたほうがいいかわかるようになる。一見問題のようにも見える個性に磨きをかけるというのは、ひとつにはこういうことではないかと思う。