物事を客観視するということ

臨床では、過去の辛いできごとについてお聴きすることが少なくないが、そこでは過去の辛い出来事を、感情に飲まれることなく語れるようになることが、一つの目的であると私は考えている。しかしそれには、一般的に長い時間がかかるようです。

語り直し語り直し・・・そしてひとつの真実にたどりついたとして、そこには、元々期待していたような「救い」のようなものはなく、ただ「自分は変わらない」という現実を知るだけの場合もあるようです。ただ、時間の経過とともに、その現実も自分にとって違う意味を持つようになり、うけいれることのできるものに変わっていく場合もあるようです。

どこへ行っても、どんなに遠くに行っても、逃れようのない現実というものは存在するのだ。結局できることは、ほんとうのことを受け入れるしかない。これで生きていくしかない。そう思えた時、未来へ向けて一歩踏み出すことができるようになる場合もある。

私の臨床の師匠は私に対し何度か、客観的になることがいかに重要なのか、直接的に説かれた。例えば「客観的になりなさい」と言ったり、「〇〇が書いている客観性についての論文を読みなさい」と言ったり。

師匠が生きていた時には、日々臨床を行いながら、師匠と対話していたものだった。それは、師匠が亡くなってからもしばらく続いていたが、数年経った頃から、対話ができなくなってしまった。もう二度と、師匠と話すことはできなくなってしまったのか・・と途方にくれていた。が、最近そうではないことに気づいた。師匠はどこにでも生きているのだ。

さて、最近あることがきっかけで、私が長年かけて師匠との対話で得たものの一つが、客観性だったのかと感じた。客観性とは我に返ることとも言えると私には感じられ、それは必ずしもデータで示されてのみ可能になるものではなく、人との対話で可能になる場合もあると私は考える。またそれに加えて、師匠との対話の経験が、私の臨床や生活において礎のようなものとなるには、違う次元での物事の移り変わりが必要とされているようにも感じている。師匠は師匠なのだ。

結局生きるとは、ある種の辛さ・不安から、ある種の辛さ・不安のフェーズに移動する。その繰り返しという部分があるのかもしれません。仮にそうだとしても、確かに後に残るものは存在すると思われ、それを自分の胸に手を当てて自分の中に見出すのが良いと、私は思っている。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。