先日、レイモンド・カーヴァーの短編集を読んだが、その中に収録されているある小説の主人公が言った、「夢は夢から覚めるために見るものだ」という言葉が印象に残った。
さて、私の師匠は「意識的な生活より夢の方が本当だ」と言う人であったが、とはいえ、かなり現実的な考え方をする人だったと思う。そういう方だったから、夢を尊重し活かすことができたのだと思う。
私も夢分析を行っているが、やはりまずは自分の現実のところをしっかり見ないと、夢分析はしてもしょうがないと思う。客観的合理的視点がないと、夢は拡散していくだけかもしれない。拡散した夢は、害になるとまでは行かないと思うが、人の現実生活に建設的な視点をもたらすことはない。人はときに、自分にとっての楽園を心の中に思い描き、何かの折に、その幻想の扉を開く。ある人はそこに何度も何度も確かめにいく。結局そこには求めているものは何もないのに。たとえばフロイトは、それを過去のある地点での固着、そこへの退行と呼んだのかもしれない。人は誰もが弱さを持っている。だから、現実の何かの方向性や意志がなければ、人は夢を見ても意味のある形で現実に取り入れることはできないし、それを自分の人生に生かすこともできない。本来あるべきでない形の夢の実現を繰り返すことになる。夢を生活に取り入れて、自分が生きるために夢を活かすためには、夢を見ている私たちは、夢が言おうとしていることを、できるだけ「正確に」つかむ必要はある。
また、師匠は夢分析の際、たとえば「夢が示すものが出てくるまで待ちましょう」というような言いかたをされることがあったが、それができるのは、おそらく師匠自身に確かな生き方があったからだと思う。私が知っている師匠の臨床は自由であったが、それは長い経験で現実を吟味してきたから、できたことだと思う。
師匠には、臨床面ではいろいろなことを教えてもらったが、知識を教えてもらった・・というよりは、物語を聴かせてもらったように感じている。また、私は小説が好きなので、いくらか物語を読んでいる。しかしそれらは、私の生きた経験とは違う。生きた経験とは、自分が悩んで、あるときにやっと解決の糸口が見えた、そしてそれによって、自分の視野が広がった、そういう経験のことを言うのだと思う。
他から聴いた物語は視野を広げるのには役立つけれど、結局主体的に生きるのは、私自身なのだ。生は有限で死は無限に続くという前提に立つなら、私は今生きている現実で責任を負わないといけない。この先夢分析を続けて行くためには、まずは私が目を覚まさないといけない。