2月くらいのことですが、障がい者の方たちがどういうものの見方をされているのか、特に知りたかった時期があった。自分の中にも同じようなもの、普通の人に比べたらできない部分がある。いったいこれをどうしたらいいのか、もてあましていたから、どう生きているのだろうと教えてほしかった。その時期に見たテレビ番組や新聞で印象に残ったことがいくつかある。
まずはべてるの家。べてるの家は北海道の浦河にある精神障害を持つ方々(中には幻聴、幻覚や妄想を持つ方もいらっしゃる)が共同生活を送る場所です。おそらく、いろいろ課題はないわけはないと思うのですが、今のところ精神障害を持つ方たちが社会的な生活を送ることを望める場所になっているように思える。この時期ちょうどNHKで何度か特集をしていて興味深かったので本も読んだ。印象に残ったのは「ここに来れば安心して絶望できます」ということば。「ここに来れば症状が出ます」というものもあった。
同時期、作家の辺見庸さんの講話をテレビ番組で放送していた。自身も脳の疾患を患い身体が不自由な作家の方だ。講話の中で「社会の底辺にいる人たち、あなたたちの周囲にもいるはずの、病気、貧困、被災・・そういう方の視点でものを見ること、それが正しい」と言っていた。物質的または精神的にギリギリのところで生きている人たちの視点が正しいということだ。(講話全体からすると、今の時代個人が誠実に生きることが必要で、そのためには・・という流れの中での発言だったと記憶している)
同時期、中日新聞に海老原宏美さんの手記が乗った。難病による重度障害を抱えつつ、障がい者の自立支援を支えている方だ。「価値ある人間と価値のない人間という区別や優劣があるとは思っていない。何かの中に価値を見だすのは人間だけだ。存在するだけで社会に価値とは何かを問い続ける重度障がい者は、存在しているだけで社会に貢献しているとはいえないか」とおっしゃっていた。
さて、昨日電車の中で私は、70歳くらいの女性に席を譲った。私の隣の席がひとつ空いていて、ご主人が座られたのだった。その前にご夫婦で席を譲り合っておられた。そこで奥さんに私の席をお譲りしようとすると、はじめは遠慮されたが結局座られた。私が電車を降りるときに奥さんは笑顔で礼を言われた。しかし家に帰ってから夜蒲団に入り寝ている間に夢を見た。階段の上のほうで転んで数段ずり落ち、下にいた70歳くらいの女性が手を差し伸べてくれる夢だった。夢のほうから見ると助けてもらったのは私だった。
最近「スクールカースト」という言葉をクライエントの方から教えていただいたのを機に、この記事を書いた。学校のクラスなどひとつのコミュニティの中で、その中の人を階層づけしてネーミングするものらしい。その後自分でインターネットなどで調べたが、「スクールカースト」によって人を階層づけるとき、どういう価値観に基づいているのかわからなかった。それで人間の価値について考えてみようと思ったら、自分が今年の2月くらいに考えていたことがよみがえってきた。
そして結局、人間の価値を考えたり、価値づけることには意味がないように思えた。