この土日は時間があったので家でテレビを見てすごした。最近はNHKや教育テレビが面白い。
土曜(昨日)の昼には遠藤周作の「沈黙」についての解説番組をやっていた。遠藤周作は思春期に洗礼を受けたキリスト教徒だったが、日本でキリスト教の信仰にしっくりこなくて、ヨーロッパに渡って勉強したが、それでもしっくりこなかった。それで日本に帰国し自分なりのキリスト教、信仰や神との向き合いかたを模索した。その道のりを「沈黙」という小説に盛り込んだという。小説の中で宣教師ロドリゴは棄教するがそのことでかえって神に近づき自分の信仰を得る。宗教とは別で宗教性というものは、誰にとっても生きて行くのに必要と思う。誰しもそんな経験ができたらいいのだろうと思う。
土曜の夜には俳優の平岳大と考古学者の対談番組をしていた。対談相手の大学教授の言っていることはあまり面白くなかったけれど、平岳大のことばはこころに残った。「役と自分は共通点がある」 「俳優は自分の感情を掘り下げる作業」 「今生きるためなら昨日までの自分の一切を捨ててもいい」。平岳大にとっては俳優とはそう思わせてくれる職業のようだ。俳優になってまもなく、稽古中に父親であり師匠の平幹二郎に皆の前で、「あなた本当にへただね」と言われて、楽屋裏で腹いせに、そこらにある何かを蹴飛ばして稽古に戻ったら、「あなた今怒っている、それが役者ってことです」と言われたという。
日曜(今日)の朝には北野武が美術番組に出演していた。ピカソの特集だった。ピカソは自分の作風を壊し続けた人です。青の時代があって、カラフルな時代があって、その後にキュビズムが来る。「泣く女」では、描かれた女性は泣きながら怒っていた。感情が伝わって来る。「ゲルニカ」の元々の構想時の画と完成の画も紹介されて、その差も面白かった。「ゲルニカ」は、完成版のほうが抽象化されている分、迫って来るものが大きい。
番組の最後にピカソが90歳くらいのときに描いた絵の実物がスタジオに登場し、それを見てタケシが、「ピカソは晩年には呼吸するように絵を描いていたのではないか」 「老年になっても好きなことができる境遇に、自分の実力でしちゃえたのはうらやましい」、と言っていた。私は老年になって人を惹きつけるとしたら、その人の実力もだけど姿勢だと思う。昨年秋に多治見の幸兵衛窯の資料館で見た、作陶家加藤卓男の晩年の作品は遊び心がいっぱいで自由だった。「この人の作品は老年に入って面白くなった」と感じた。この前発売された村上春樹の「騎士団長殺し」を読んだときも同じようなことを思った。
私は中年。年齢的には平岳大や「沈黙」を書いたときの遠藤周作の年齢に近い。カウンセラーとしてもプライベートでも、そのときの感情を生きていくことだと思う。だからこそやはり、かたちが大事だと思う。
週末にテレビを見てつれづれ思ったことを書いてみた。