私は幼児期から小学校低学年にかけて、虫や花に親しむ少女であった。虫で言えば、カナブンにひもをつけて飛ばしたり、アゲハの幼虫を飼ってさなぎから蝶になるまで育てたりしていた。草花でいえば、家の近所に咲く野草などには興味を持って、細部まで観察していた。その影響もあってか、野草で遊ぶというコンセプトの本「草花あそび」に興味を持ち、小学校低学年の時に、読んだのだった。その全く同じ本を、1年ほど前に図書館でまた借りて読んだ。
本の内容は、例えば、「笹の葉で笛を作ろう」「たんぽぽの茎で水車を作ろう」等で、「真似してみようかな」とか、「これはすぐにできそうだな」と、小学生の頃には実際にその通りに遊んでみたものでした。一方、例えば「松の葉を使って虫かごを作ろう」「ヒガンバナでネックレスを作ろう」など、真似して遊ぶのが難しく感じられるものもあり、「松の葉で虫かごの形を作るのは多少無理があるのではないだろうか」「ヒガンバナはたんぽぽと違って、気楽に摘んではいけない花のような気がするがいいのだろうか」と、子どもながらに、感じていたものでした。
私が小学校低学年といえば、時代は昭和50年代半ば、家の脇の道、その向こう低く落ち込んだ場所に、せりが生えるような細い小川が流れ、夏の夜にはうしがえるが鳴いた。草生した小川の土手にはいろいろな野草が生えていた。小川の土手を登った両側には小さな畑があり、サトイモの葉が揺れていた。そこではカブトムシの幼虫がとれた。畑に隣接して柿の木が植わった三角形の不思議な空き地があり、ときどき米を爆ぜさせてお菓子を作る人が移動してきて、お菓子を爆ぜさせる大きな音を立てていた。
さて、先日その本を借りて40年以上ぶりに読んでみて、当時と感じることが変わっていないことに驚愕しました。「たんぽぽの茎で水車」・・のところでは「またやってみたいな」と思いましたし、「ヒガンバナでネックレス」のところでは、それはちょっとやるのは抵抗があるな・・という違和感を持ちました。
私の分別は、おそらく小学校2年くらいから変わっていないのだと思います。当時不可能と思うことは、今も不可能と感じました。当時心惹かれてやってみたいと思ったことは、今もやってみたいと思いました。右も左もわかっていなかったと自分では思っていた時代のこと、実はわかっていたということなのか、もしくは今も、右も左もわかっていないのか。おそらく後者のような気がします。しかし、今またたんぽぽの茎で水車を作れば、当時と同じようにいつまでも眺めていられると思います。時間はいくらでもありました。新しい物を見れば、その中にいくらでも可能性をみつけることができた。家から100メートル離れた場所に咲いた宵待ち草を初めてみたときもそうだった。世界は知らないことと未知の可能性であふれている。しかしそれは外でなく、私の中にあった。おそらく今も、それは些細なきっかけで、私や周囲の人たちの中に感じられる。そういうときに私は、とても嬉しくなる。世の中は効率と結果と形式で動いている部分が多い、私もその中に含まれている、わかってはいるのですが。