自分は何者であって、これからどうして行きたいのか。心理学では、人がこのようなことを考えるのは思春期とわれている。それまでに人は、自我の芽生えを経験し、友人と自分、親と自分が違う人間であることを知り、自分が社会的生き物であることを知る。
最近読んだ村上作品で印象に残っている台詞がある。それは「このままだと生き地獄になる」というもので、主人公たちが、衝動と自己中心の世界から抜けようとする、そのタイミングで出てくる。今の私にとってはなぜかそれが、そのまま自分にとっての啓示として感じられたのだった…
コンプレックスという言葉は、劣等感という意味でつかわれる場合もあるが、ユングは、感情に彩られた心的複合体という意味で使った。自分が打ち捨ててきた感情などが、心の中に溜まってある塊を作り、自律性を持ち、人の行動に影響を及ぼすこともある。感情に彩られているので、根強くときにコントロールのきかなさがある。その人を失敗に陥れたり、逆にうまくつきあえば、その人の人生を豊かに彩る場合もある。劣等感の感覚は、コンプレックスの解消の失敗からくる、というユングの考え方がある。
ただ、ユング心理学は、自我も職業もある程度固まり、生活の道筋がある程度固まっているような、中年期以降の人間心理を理解する場合によいようだ。なので、私は比較的年齢が若い方や、自分の道筋がはっきりしていない方の「劣等感」の問題に対する場合には、ユングよりはエリクソンの説に照らして考えたほうがいいように思える。アメリカの心理学者で、フロイトの流れをくむ。
エリクソンが言うには、児童期に大切なのは、喜んで働くこと、すなわち、勉強したり、何かに一生懸命取り組んだり・・そういう経験を積み重ねることだという。それに失敗すると、劣等感に陥る、とエリクソンはいう。
ただ、やはり、エリクソンの説も自我の確立あっての話だ。私にとって自我とはときに、喜びに導かれその人を成長させるセンスのことですが、ユングもエリクソンもなぜそれが当たり前にあるものとして持論を展開したかと私は言いたい。
ともあれ、このような自我の関与がないと、人は劣等感に陥りようもない。個性も主体もない。できることとできないことがはっきりしない。何かに責任を負うこともない。生き物同士共存していれば、例えばお魚を食べればその命をいただいている。私たちは皆、何かの犠牲の上に立っていることは明らかですが、そこにあるのが何の誰の流した血なのかわからない。だからそのことに対しての痛みも哀しみも感じられない。まさにこの状態が「生き地獄」なんではないのか。
さて、最近やっと私は6歳くらいの区切りを超え、自分の仕事に向き合うことができるくらいになったのではないかと感じている。このようなわけで今の私のタスクは、一意専心。自分の仕事に向き合うことかと思っている。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。