先日、NHKの番組がCWニコルさんについて特集を組んでいた。CWニコルさんについては、確か高校の時の英語の教科書に載っていたのを読んだことがあって、森を守っている人だというのが、その時からの印象だった。ウェールズ生まれ。50年ほど前に日本に来てから多くの年月を長野県で過ごしたようだ。
特集番組の中で、ニコルさんが、震災後の東北のとある市に小学校を建てるために尽力していたことを知った。それは、長野県の黒姫にあるニコルさんの守る森に、震災直後に東北の小学生たちが訪れたときの関わりがきっかけになってのことだった。子どもたちは皆、家族や友人を震災で亡くしていた。番組の中で映った、その子たちが森の中でのびのび生き生きと遊ぶ時の笑顔にには、私も心を打たれた。ニコルさんは、最期の10年の多くの時間をその東北の市の小学校の再建のために費やした。ニコルさんは3年前に癌を発症し、今年の春に亡くなった。
東北に限らない、災害は、激甚災害は、日本各所で起きている。今年の7月には熊本で、去年の秋には長野で、一昨年の夏には広島で ・・・・・・・・
激甚災害にさらされたことがなくても、子どもたちにとって、今の世の中で育つことは大変なのではないかと思う。それは、かつて子どもだった人たちにとっても同じだ。のびのび遊べる「安全な森」はどの時代にも子どもたちにとっては大切なものだ。しかし今はそれがない。社会の変化(例えば、パソコン・スマホの普及、女性の社会進出・・など)に伴い子どもと大人とのかかわりはかつてより薄くなっている。有事にはまず守られるべきなのは弱者であり発達途中である子どもだと思うが、その意味でも大人と子どもの境界があいまいになっており、何がよくて何が悪いのか、その境界もあいまいになっていると感じる。かつての社会ではそこらの境界が今よりしっかりしていたので、森がなくとも「安全な森」の代わりの守られた場所があって、その中で子どもたちは自分たちの内部の自然を十分に発露させ、のびのび遊ぶことができた。しかし、今は子どもたちがのびのびと内なる自然を発露するために必要な社会的守りが薄い。その守りの薄さゆえに、子どもたちの内なる自然は、ときに間違った方向に向かう。何がよくて何が悪いのかもわからない中、幼い時に身につけられたその様式は、その子どもの一生を貫く場合もある。ニコルさんが守った森は、このような世を生きる子どもたちに、安全にその内なる自然を発露できる場所としても、機能したに違いない。
ニコルさんの支援で東北のその市に再建された小学校は、木で作られているが、その過程でニコルさんが「もし木でなくて他の材料でするなら、私はこの活動から抜ける」と言っていた。「一番大切なのは子どもたち」とも。ニコルさんにとっては森の木を守ることと、子どもたちを守ることに違いはなかったのだと思う。
私もかつて子どもだった。私たちひとりひとりが自分の内なる自然がどのように歪められているのか、目を向けることが必要だと思う。それをしないから昨今、世の中で(激甚)災害と呼ばれるものが多発するのではないかと思う。テレビの中や遠い過去の話ではない。目を向けていないだけで、それは確かに私たちの中にある。