あとに残るもの

今日は刈谷市の教育連絡会に出席した。

刈谷市内の子どものこころのケアに携わる方たちのネットワーク会議のようなもので、カウンセラー以外にもいろいろな機関からの出席者の方々がいらっしゃっていた。

そこで、懐かしい方と再会することができた。

小学校の5年6年の2年間学校内のクラブ活動でお世話になっていたS先生だ。30年ぶりだ。

今はどうなっているのかわからないが、30年前は刈谷市の小学校4年生から6年生は週に一度木曜日の最終限に、クラブ活動をしていた。手芸や編み物、将棋、サッカーなどクラブの種類は多岐にわたっていた。私は5年時と6年時で陸上水泳クラブに所属した。

私は小学校のときぼーっとした子供だった。動作がのろくて外界との付き合いがかなり苦手だった。新しい環境に慣れるのにも時間がかかり、自主的に何かをするなんて、それがどういうことなのか意味もわからなかった。なんとなく周りに流されて生きていた。

勉強は少しだけできた。決められたことを一生懸命こなすのは得意だったからだ。ただ、自発的に何かをするということがとにかく苦手でできなかった。したがって国語の時間に時々課題として出される自由作文というのはかなり苦痛だった。私は題目が選べなかった。

小学校卒業時に書く卒業文集も何について書こうか迷った。そしてS先生が率いていた「陸上・水泳クラブの思いで」という題名で文集に乗せる作文を書くことにした。

今考えると、書く題材は他にもいろいろあっただろうと思う。毎日活動していたブラスバンド部に入っていたし、スイミングも週に3回通っていて厳しい練習で大変な思いをしていた。いつも一緒に遊ぶ友達も何人かいた。それなのに私は何故、S先生のクラブ活動について書いたのだろう。しかも、作文の内容は、クラブ活動でこんなことをして楽しかった、というような報告と感想を書いただけのものだったと思う。こういうことがあって胸を打たれたという印象的なことは何も書かなかった。

ところで、S先生は他の学年の担任をしておられた方だった。したがって、教科を教えてもらったとか、遠足に連れて行ってもらったとか、叱られた等のインパクトのある思い出はない。そして、クラブの活動も頑張って競技会の優勝や何かを目指す等のハードなものではなく、あるときには長距離を走ったり、あるときにはゲームをしたりとゆるい内容のものだったのでこれを成し遂げて印象に残ったということもない。

しかし楽しくて楽しくて腹をかかえて笑っていたというのは思い出せる。

S先生はとにかく面白い先生だった。子どもを動かすのがうまかった。子どものこころを動かすのが。先生に言われたら子どもたちは逆立ちでも木登りでもなんでもしそうだった。先生と一緒にすることならなんでも、楽しかったからだ。

現在、S先生は教員を退職し、不登校のこどものための通所施設で子供たちの支援をしておられる

今日の会議の中でS先生は、「われわれとの関わりの中で子供たちが何か自信のようなものを少しでも取り戻してくれれば」と真剣なまなざしで発言しておられた。30年ぶりにお会いした先生は外見はそれなりにお年は召されていたが内面は少しも変っていないように思えた。

先生の発言をきいて、30年前に私がもらったものはこれだったのかとわかった気がした。なぜ私が卒業文集にS先生率いるクラブ活動について書いたかも。

「S先生と関わって楽しかった。先生が好きだった。そしてそれを文集に乗せる文章に書いた。」

言ってみればこれだけのことではあるが、6年生のときの私に、S先生との関わりで得たものとその意味を漠然と感じ取り、あとに残したかったという気持ちがあったのだろう、と今は思う。

S先生とのかかわりの中であとに残るものが確かに生まれ、そして今も存在しつづけている。

この記事を書いた人

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加藤 理恵

臨床心理士・公認心理師
カウンセリングルーム はるき カウンセラー 

(株)デンソーを退職後 心理系の大学院を修了し、39歳で心理カウンセラー
42歳でカウンセリングルーム はるき 開室。
ユング心理学を背景に持つ、夢分析 箱庭療法を得意とし、主にうつ、不安、対人関係に関する悩みの相談にあたっている。

過去に、精神科クリニック 産業領域(トヨタ車体(株)) 愛知県教育委員会スクールカウンセラー(中学校) 等でのカウンセラーの経験がある。