心理士になろうと会社を退職し、心理系大学院の院生になったのは33歳のときだったが、授業の一環でロールシャッハテストを受けて来なさいと先生に言われて、とある相談室でテストを受けさせてもらった。そのときには、ロールシャッハテストを受けるのがかなりストレスで、受け終わった後に尋常でない疲れを経験したことを覚えている。その時は4月で雨だった。相談室とはなんと冷たく心細い場所なのかと思った。
だいたい10枚の図版を見せられて、これで自由に何かを言うなんて、不安で何を言ったらいいのかわからなかった。それに図版は形が不確実なものばかりで、それだけで恐怖感を煽られた。大げさでなく恐怖だったと思う。私の反応数は多く、形態水準は低めだった。図版が怖かったのは、自分の不確実性が反映されてのことだったと思う。あのころ怖かったのは、自分自身だったと思う。
昨日その相談室で、講話を聴く機会があった。そこで「幼児性があるということは成長の可能性があると言うことだ」という言葉をきいた。ある偉大な先生がおっしゃった言葉らしい。幼児性とはいったい何なんだろう。思い浮かぶのは、自己中心性の強いこと、自他の区別のないこと、他者存在のないこと、自立していないこと、等が浮かぶ。少し前に、人間は何故幼児的であり続けてはいけないのか、そんなことを考えていた時期があった。他者存在のない自分中心の世界で、好きなことをし続ける、それだけではいけないのかと。誰しもそういう時期があると思うが、それはそれで満たされるのではないか。何故人は、成長する必要があるのかと。
それはやはり、人間は社会的な生き物だからだと思う。幼児的な自己中心のままでいては、他者の存在も感じられないし、他者から見た自分が気になっても、自分がどんな形をしているのかがわからない。世の中で自分がどうふるまっているのか、どう見られているのか、対してほんとうの自分はどういう人間なのか、自分はこの世の中でどう生きていくのか。幼児的な自己中心の世界にいては、世に生きていても何も確実なものはない。成人になっても、中年になってもその不確実さの中、それに気づかず自分の世界で生きている人もいると思う。それでも年齢を追うにつれて、例えば世間の本人に対する見方もかわり、当人の中では、もやもやしたものが出て来るのだと思う。結局人は人との関係を希んでいる。
私が心理士になったのは、人とほんとうの関わりをしたかったからかと思う。本当の関わりとは、自分を知ることに他ならなかった。いまだに自分のことはわかっていない部分は大きい。結局私は、ロールシャッハを受けた33歳の時、心理士を目指そうと思い立った24歳の時、思春期を迎えた4年生の時、自分を意識しはじめた小学校2年の時、自己中心の世界で満足していた幼児期、いろんなことが迫害的に感じられた乳児期・・と何も変わっていない。ただそれをほんの少ーし離れてみることができるようになった。それだけである。